吉野ヶ里遺跡
を守った、
江永次男と芳子。

このサイトは佐賀県の遺跡と文化を全力で守り抜いた、江永次男と芳子の記録です。
研究論文や陳述書など少しずつ資料をアップしていきたいです。

江永次男氏が和島誠一賞受賞時の新聞15段 江永次男氏の和島誠一賞の表彰状

江永さんに「和島賞」
吉野ケ里遺跡保存に功績

吉野ケ里遺跡の保存運動に貢献したとして、文化財保存全国協議会の小笠原好彦代表(左)に和島誠一賞の盾を手渡された江永次男さん=県庁

吉野ケ里遺跡(神埼市郡)の保存運動を続けてきた元中学校教諭の江永次男さん(85)=鳥栖市=が17日、文化財保存全国協議会の第14回「和島誠一賞」を受賞した。工業団地化か、保存で揺れていた同遺跡で、江永さんの運動が保存に貢献したと評価された。
江永さんは1972年、「生徒が姫方遺跡(三養基郡みやき町)を荒らして因っている」との苦情を受けて遺跡を見学したのをきっかけに、文財保存運動に取り組むようになった。
89年には吉野ケ遺跡の保存を求め、神崎工業団地の起工式で「全面保存」の横断幕を掲げて抗議。現在は吉野ヶ里遺跡の保存会をの会長を務めている。
全国協議会の小笠原好彦代表が県庁を訪れ、盾を手渡した。江永さんは「調査をしていたら、住民から石を投げられたこともあった。それでも続けてきてよかった」と喜びを語った。
同協議会と保存会は吉野ヶ里歴史公園に隣接する県有地へのメガソーラー建設に反対しており、この日は知事、教育長、県議会議長宛てに計画変更を求める要望書を提出した。(山口貴由)

全面保存せよと看板を掲げる江永次男氏の写真 反対署名を集める江永次男氏の写真
テレビのインタビューを受ける江永次男氏の写真 説明する江永次男氏の写真

文化財保存全国協議会ホームページより

第14回和島誠一賞受賞者
【個人部門】  江永次男(えなが つぎお)

江永次男氏は、1927年、台湾台北にて出生、戦後引き揚げて英語教師となり、佐賀県三養基郡中原中学校で勤務中の1972年、教え子達が「発掘中の姫方遺跡を荒らして困る」との苦情を受け、姫方遺跡を見学、すっかり魅せられ、考古学を学び、姫方遺跡が造成で破壊される時には、一人でブルドーザーの前に立ちはだかったという武勇伝を残されました。1982年、吉野ヶ里に神埼工業団地案が県議会に出されるや直ちに「佐賀の自然と文化をまもる会」に働きかけ「吉野ヶ里丘陵全体の完全調査と神埼工業団地造成計画の断念」を県に要請、この後7年間にわたり保存運動を精力的に続けられましたが、1989年1月25日神埼工業団地起工式を県は決行。この時、江永氏は奥さまと友人2人の計4人で氷雨の中、「全面保存」の横断幕を掲げアピールされてます。同時に「吉野ヶ里丘陵遺跡の全面保存」なる長文の陳情書を徹夜で書きあげ佐賀県知事、県議会議長、文化庁長官に提出。佐原真氏の来佐を仰ぎ、2月23日、NHKと朝日新聞一面トップの吉野ヶ里報道に繋がりました。報道に背を押されるように「佐賀の自然と文化をまもる会」も拡大発展し、「吉野ヶ里遺跡全面保存会」が結成され、江永氏は事務局長として力強く運動を牽引、約23万筆に及ぶ保存の署名を集め、国の特別史跡、国営・県営歴史公園へと導かれました。今、再び遺跡の16ヘクタールにメガソーラー設置で遺構と景観が台無しになると保存運動を展開中です。議決済みの工業団地を初めは1人で反対し長い年月講演会、見学会、ビラ配り、署名集め、陳情、請願と繰り返し67ヘクタールの内38ヘクタールを保存に変えた功績は大きいです。吉野ヶ里を見学された鹿児島県知事は上野原遺跡を、また青森県知事は三内丸山遺跡を全面保存と決断され、これも吉野ヶ里効果と評されました。

丸山遺跡における「遺跡移設について」

太田記代子さんが語る「自然と文化を守る人たちへ」

日本医師会・佐賀県保険医協会 医師 吉野ヶ里遺跡群を世界遺産にする会 会長  
2023.10.21

吉野ヶ里遺跡を世界遺産に >>

ご協力いただきました皆様、ありがとうございました。  江永浩和