吉野ヶ里遺跡を世界遺産に 吉野ヶ里遺跡を世界遺産に 吉野ヶ里遺跡を世界遺産に 吉野ヶ里遺跡を世界遺産に

下記はテキスト化したものです

吉野ヶ里遺跡を世界遺産に!

滋賀大学名誉教授

文化財保存全国協議会代表委員

小笠原好彦


世界遺産の登録では、同様のもの、また類似したものは他に認めないという建前をもっています。 この点からすると、吉野ヶ里遺跡を単独登録するよりも、吉野ヶ里遺跡をコア(中核) として、例えば長崎県原の辻遺跡、福岡県平原遺跡、平塚川添遺跡など、九州の複数の弥生遺跡を組み合わせることによって、日本の古代国家(大和政権)成立前夜を具体的に示す歴史遺産として、世界文化遺産の暫定リストに登録するのが望ましいように考えます。 しかし、いま吉野ヶ里遺跡をコアとして、世界文化遺産の暫定リストに登録するには、吉野ヶ里遺跡そのものに大きな課題・問題があります。 それは、これまで登録されている世界文化遺産は、その対象物をめぐる周辺にたいし、バッファーゾーン(buffer zone 緩衝地帯)をも重視する考えがとられてきています。また、登録されたものでも、著しく景観を損ねるような開発をおこなおうとする場合には警告し、それに対応・改善しないときは、登録から抹消されることがあります。 その例に、ドイツのドレスデン・エルベ渓谷があります。ドレスデン・エルベ渓谷は、2004 (平成16) 年、18 世紀に「エレベ川のフィレンチエ」とも呼ばれた歴史的都市のドレスデンとエレベ川が世界文化遺産となりました。しかしその後、かなり以前からエレベ川に架橋する計画があり、これを具体化し建設する方針がだされました。それに対し世界遺産委員会は、その架橋をおこなつた際には、世界遺産リストから抹消するという警告を通知しましたが、ドレスデン市は架橋工事を強行したことから、2009 (平成21) 年に抹消されました(現在は元世界遺産と呼ばれています) 。 このように、世界遺産は景観をじっに重視していることからすると、吉野ヶ里遺跡の国営公園の北側一帯に、広範囲にわたってメガソーラーが設置されていることは、吉野ヶ里遺跡のバッファーゾーンとしては明らかに相応しくありません。これが登録に際して、大きな支障になるものと思われます。 それだけに、「日本の古代国家の成立前夜」をテーマに、吉野ヶ里遺跡をコアとして九州の複数の弥生集落を世界遺産へ登録を進めるには、吉野ヶ里遺跡の全体を見て回る際に障害となるメガソーラーは、できるだけ早い時期に他所に移す必要があります。

吉野ヶ里は景観も宝
〜歴史文化の聖域〜

吉野ヶ里遺跡全面保存会副会長

佐賀県保健所長会元会長

元佐賀県議会議員

太田記代子


吉野ケ里遺跡の重要な場所に全く不釣り合いなメガソーラーが据えられてしまい、本当に残念です。  国の特別史跡(遺跡の国宝)を擁する国営歴史公園の遺跡群と景観を後世に残すべく、かなり努力しましたが、県(古川康県知事)相手の運動は困難を極めました。  平原廣澤の佐賀県です。適地は他に有るのに何故、吉野ヶ里に? については「玄海原発三号機の事故をカムフラージュするために太陽光発電派を装うパフォーマンス」 と、原発事故と関連づけて囁かれています。  私が平成元年、吉野ヶ里報道の日から保存運動に加わりましたのは、発見者・七回忠志先生の教え子の一人としての思いに加え、この遺跡の歴史的意味が将来の日本に大いに貢献すると理解できる歳に達していたからです。しかし古川知事は弥生時代の水田跡や竪穴式住居跡を発掘調査もせず、一部、犠牲にして、メガソーラー設置を強行、若さ故の拙速で許される事ではありません。  更に「原発に前のめり」 と報道され、プルサーマルは全国的反対を押し切り、日本一早く強行。その玄海原発三号機は世界一危険と分析されています。そして、なんと商業運転の一年と7日目(2010年12月9日) に放射性ヨウ素洩れ事故、2日後に流石に慌てて手動停止。県の発表は「定期点検で停止」と事故隠しの、事実に反する発表。意識の高い人の怒りを煽りました。  次の県議会(2011年2月)で吉野ヶ里メガソーラー案が出され、当時、私は県議でしたので強く反対して抗議。これが始まりでした。「吉野ヶ里を弥生の景観として美しく後世に」と獅子奮迅し飛び回り続け、疲れ果てている時に若い弁護士の先生方が救いの手をさし伸べて下さり、歴史的裁判となりました。

一、石器時代、縄文、弥生から明治維新期まで奇跡的に遺る複合遺跡
二、古代ローマ時代のシルクロードの東の終点
三、平和の使者・徐福や鑑真ゆかりの国際親善に貢献する通史跡

として守り繋ぐのは大人の責務でありましょう。吉野ヶ里メガソーラーに県費39 億円余が費やされ、電気代は県に入らず、メガソーラー株式会社が20年で100億円の収益を上げると地元紙に後に報道されました。  この地は、古老によると、「粗末にしてはならぬ、罰が当たる」とまで戒めて守られた所、精神文化の聖域だった由です。今、先人に相済まなく胸痛みます。文化財保護法違反を犯しては歴史に汚点を残します。歴史文化への冒涜とさえ申すべきでしょう。  それにしても、圧力にもめげず、お力を添えて下さった多くの方々に感謝を捧げ、この記録文集 が未来への鏑矢となるように念じ続けます。

お問い合わせはこちら >>>